そんなこともアロワナ

そうでもない。

ツイートの下書きたちの供養

 

供養の時間である。ツイートの下書きたちの供養というものは、本来2020年においてこなければならないものだが、2020年のわたしにはそのための時間がなかった。わたしには時間がなく、いくじもなく、従って供養の時間が必要となった。日々を繰り返し生きる中でTwitterのアプリを開き、あれこれ綴る言葉を考えるが、それは「吟味する十分な時間がない」ために下書きへと送られる。Contemporarityを損なった文章はツイートにはなり得ない。だから普通はそれを防ぐための努力をしなければならない。にもかかわらずそれを良しとするくらいには、わたしには時間がない。わたしには時間がなく、それを言い訳にするほどいくじもなく、したがって供養の時間が必要となった。

この書き出しは『海辺のカフカ』の英訳(日本出版貿易社)を読んだことのある人間にとっては「またやってるよ」という印象を抱く類のものである。

引用の形式を取るが、原典は無い。

 

働きたくないという言葉が単体で成立することはありえない。「働く」という行動は存在しないためである。確率的過程において「働く」は「労働」の概念と同値となるかもしれない。

 

思えば「働く」という単語には極めて高い「社会性」あるいは「社会リテラシー」とでも言うべき概念が内包されていると感じた。

労働とは究極的には「食い扶持」であり、人間の生存が世界から許容されていないために必要な行為である。しかしこれは補助的かつ従属的な行為でもある。というのは、これらの単語は大きな連なりの部分要素を示すのみであって、生存には「食う・寝る・着る」が必要であり、さらにそれら全ては「金」を要求するため、その最も確実性の高い生産方法として「労働」が通常選択される、といった構造をしているからである。そうすると、この構造から導かれる「働く」や「労働」、「仕事」と言う単語は「食い扶持のためにやっている」という手段性を帯びる。と言ったような理由から、これらはネガティブな属性を貼り付けられがちである。

そうすると、「自己の生活に満足した日々を謳歌する中で金銭が受諾できるシステムを構築するか否か」ということは重要な争点になる。これは、金銭の受給が常にポジティブな行為の対価として得られるかと言う問いかけでもある。「好きなことを仕事にする」というような平易な概念でも良い。達成されれば、「労働」という概念から切り離された生活が顕されることだろう。が、もちろんそのような生活の中でも稀に自己を捻じ曲げて仕事(金銭のためのプロセス)に向かわねばならないこともあるだろう。我々にとってどれほど多くの学術研究プロセスの部分要素が楽しくとも、「クソ」と言う言葉をつけたくなる事態は夥しく襲いかかってくる。それは「襲いかかってくる」ものであり、自己の制御範囲を逸脱する。その確率は低いか高いか、それはどちらでも同じことだが、サイコロを振って1を出すと「クソ」を引く、というような話である。死ぬまで、あるいは時の果てまでサイコロを振って1が出ない確率はほとんどいたるところで0である(1/6をn乗する高校数学である。事象としては存在する、決して「絶対に起こり得ない」という意味ではないが、その極限は0であり、従って「ほとんど至る所で」0である)。その意味で、「労働は自己を抑圧するものである」という概念は数学的には正しいかもしれない。

要するにこれは「リテラシー」であり「認識論」の問題である。「仕事」とは時の果てまでネガティブである。が、「ネガティブ」をありがたがる人々もいる。そこがいかにも難しい人の在り方であろう。

 

自由は端的に素晴らしく不自由の上位互換であると教わるが、これは解釈論である。またはイデオロギーである。実際には、ある部分では自由で無い方が便利で助かるということも多々ある。そしてそれもまた解釈である。

 

わたしは大学生の頃、この話をした時、「それは自由の方が豊かで恵まれているに決まっている。なぜなら自由は素晴らしいものであり、不自由は自由ではないから素晴らしくないのだ」と頑として譲らない人間を友人の中に認めて、深く失望したことを覚えている。それほどまでにこのイデオロギーの浸透は根深い。

根の深い話をするのはやめておこう。ここでしたいのは明日食べるものが「選べる」のか「選ばなければならないのか」という問いかけである。『La leggenda del pianista sull'oceano』(邦題: 海の上のピアニスト)という1998年のイタリア映画があって、わたしはそれがすごく好きなのだが、「決めることのできる人生」と「決めなければならない人生」との違いは解釈論でしかない、ということを話すときによく引用する(もちろんそれが映画の主題でないことは理解している)。

少し違う話で、スティーブ・ジョブズは全く同じ組み合わせのトータルコーディネートを何着も持っており(というよりそのほかに服というものを持たず)、それによって脳のリソースを「服装」に費やす時間から切り離していたという有名な逸話にしてもそうなのだが、「自由」というのは同時に「束縛」でもある、ということは往々にしてある。彼(ジョブズ)は自身が服を「選ばなければならない」という「束縛」を嫌って、それをそっくりそのまま自己流のルーチンに押し込むことで無効化した。

この点に関して、「自己流のルーチンに押し込むという手段を選ぶ自由があった」という解釈を介せば(それもまた自由ではあろうが)、彼は真実自由に救われたと読むことも可能であるが、しかし「彼はその自由を行使せざるを得なかった」と、このように押し問答が成立する点では、「自由という名の不自由」が円環構造を持って形而上の真実として発現する(場合がある)ことそのものは疑問を挟む余地がないように思うわけである。自由とはそのまま不自由を意味するのである。当然これは「解釈できる」自由であり、「解釈しなければ意味を持たない」不自由であると言える。

私は、個人の世界解釈として、実に不自由を好む。住居は不自由でよく、服装も不自由でよく、髪型から顔面のありように至るまでが不自由で良く、食事さえ決められたものが決められた時間に現れるのを心より好む(本当だ)。たとえば私が研究活動においてよく従事することになっていた(最近はそういう案件がない)「あるフィールドにおける調査」というものでは、寝る部屋は決まっており、食事のメニューは決まっており、そのために起きてくる時間やら寝る時間やら、作業従事時間は概ねほとんど決まっていた。もっと言えば「会う人間も決まっていた」し「会話内容のジャンルも決まっていた」。そして、そういった生活が1ヶ月程度続くものであった。私はそのような不自由な生活が心底好きだった。その不自由は、私の「自由な研究活動と思索と作業内容」を守るための最善の手段だったからだ。それらを全て自分でマネジメントするというのは、はっきり言って不可能であるように思う。私は愚かで、能力に乏しく、超シングルタスク型の、しかも凡人であるが故に、それらに手を回すと「本業」が空中分解して消えてしまうのだ。

不自由さは、私の解釈では、ある程度は必要なのだ。「誰かに決めてもらえるならそれに越したことはない」のである。多くの人にとって「新型コロナウイルス感染症の対策でというのはわかるが」、「それでも出社したい気持ちがある」というようなイメージが残っているのは、このあたりも関係していよう。一概に作業効率を基準に語るべきことでもない。人は自由を欲しながらも不自由さの中でこそ快を得るというのは、大衆心理学的にも周知のことではあるのだし(そんなことは求められていないので、引用はしない)。相反する二つの相の臨界で人は揺らいでいる。私とて「不自由」だけに興じるのは好まない。大切なのは「自由である」自覚と、それを自覚させるに足る十分量の「不自由」だ。双曲線の問題に違いない。

ただ、そうだな。翻って根の深い話を補足するならーー私が深く失望したのは、「自由を尊ぶ」イデオロギーそのものではない。「不自由もまた素晴らしいのだという解釈」の側に立ってものを考えるということをしなかった彼の言論空間に対する不誠実さに失望したのだ。議論が面白ければそれで良いではないか。中身などどうでもいいではないか。自分の考えなど関係ないではないか。そんなところである。

私は「話すこと」が好きだ。「議論すること」が好きだ。それそのものが単独で好きであり、内容などどんなものであっても構わない。それは「手段のためなら目的を選ばない」ということである。その傲慢さに呼応して、私のイデオロギーは60Hzで反転している。そのところが悩ましい。自由と不自由との反転にしたって、私が一人で回転しているだけかもしれない。つまり何が言いたいかというと、この文章には「なんの意味もない」。

 

アクアテラリウムイデアを立ち上げようと思う

 

アクアテラリウムをやりたい、やりたいと思ってしばらくになる。以前はオフィスに水槽を立ち上げたり、実家で立ち上げたり、色々と遊んでいたものだが、この数ヶ月で住居を変えることにもなるし新居ではできるだけお金を貯金したいなどという企みもあって、アクアテラリウムを始められずにいる。

そうしている間にも脳内にはアクアテラリウムのアイデアがふつふつと沸き上がり、球状の形をなし、ちょうどシャボン玉のように臨界まで膨らんでは弾けて、大きな一つのアイデアへととけあっていく。その内側に形成される空間は凝縮された霧雨林だ。その膜は、さながら「アクアテラリウム」の「イデア」へと通じるポータルである。私は脳内に手を伸ばすだけでイデアに通ずる権利を得たように見える。今日も脳内にてアクアテラリウムの「あるべき姿」に手を伸ばす。だが触れると弾けて消える。ソリッドな概念ではない。人は時の果てまで、真にイデアを知る事はないのだ。あの霧雨林のミニチュアは、私のシナプスの電気信号中に畳み込まれてのみ存在している。それは11次元空間の畳み込みを人が知覚し得ないのと同様、人智を超えた世界へと通じるソロモンの鍵である。生体電脳カドモニを編成するアマニの器とは、アクアテラリウムのことだ。そして、アムニスとはコスタリカのイボヨルトカゲのことだ。間違いない。私はデウスである。

 

必殺技がほしい

 

たぶん地属性でMPめちゃくちゃ使うやつ。

 

身体性と自己表現が強く結びついている人生というものは、どういったものだったろうか。

 

私が「ネコタク」(ネコタクシーの略だ。ネコタクシーは「ナルコレプシー」の聞き間違えからきている。さらにその由来は彼の本名となる。ここで打ち止めだ。)と呼んでいる、京都の鴨川近辺に神出鬼没に現れる死んだ魚を殺したような男の目をしている、仙人のように長い髪の、私の8つ歳上の男に、「お前は精神ばかりに着目して生きているが、その精神への着目じたいが、ひとつの身体活動であることを忘れてはならないのだぞ」という忠告を受けたのは、もう6年も前の雪の日だった(彼は実に本当にこういう言葉で話す)。前の晩の大雪の名残雪がサラサラと流線を描いて滑り落ちる曇天の鴨川を、下駄をガラガラと鳴らしながら下品に歩くネコタクと、オレンジの登山靴を履いた実に上品なわたしが「糺の森」の雪化粧を見にこうとしていた時だ。

ネコタクが言いたかったのは、私の精神的な、「紙とペン」の上での、パソコンのモニター上での、計測装置の内側での、それらあらゆる空間に実存として存在しえない「形而上の」事柄への執着というのは、私自身が肉体的な「快」に乏しいからではないか、ということではなかろうか。そして、そうであればこそ、しかし私の脳はわたしの肉体に固定されているのだから、意識として身体を嫌う事は危険だ、という忠告であろう。

たしかに、ある意味でそれは正しいかもしれない、と思う次第であって、わたしは「身体」を自己表現の空間としたことがあまりなく、それをする値打ちをあまり感じていないということである。たとえばタトゥーなどをする動機に「決意を肌に刻み込む」とか「おしゃれになりたい」というような文言を聞くものだが、はっきり言って全く共感できない。刻み込まなければ忘れてしまうものは決意ではなく思いつきであるし、おしゃれは外的装飾品によっていくらでもできるものであるから、日本国における社会的デメリットを被る手段にまで手を出すにはよほど「おしゃれ」を極めなければならない、などと思うのだが、これはわたしが身体的表現性に共感できないことからくるのだろう。わたしは自身の胸の内に「クジラの化石に手を伸ばす」という信念を掲げて20年になる。わたしの表皮にそんなものは刻まれていない。私の信念はシナプスの電気信号中に畳み込まれてイデアとして存在する。だがこれは逆説的には(まさにネコタクの言った通り)極めて身体的なことである。これは、「脳」という部位、あるいはその分節上の辺縁構造物としての「人体」に高い重み係数を設定した自己表現、そうとしか表現できまい。

ネコタクの憂慮通り、私の人生には意識として身体的表現が重要であった事はほとんどない。幼少期において「小児喘息」は私を蝕んだが、幸いにもそれは私からプライドや快活さを奪うほどのものではなかった。青年と呼ばれるようになってから、ほとんどの若者がそうするように「セルフポートレート」に手を出すこともあったが、あまり興味が保てなかった。服飾にもさほどのこだわりはない。見窄らしくない最低限が保てればーーつまりわたしの最低限の社会活動を阻害しなければーー構わないと思っている。それで、いつも数種類の衣服を着まわしている。無地の長袖とジャケット。無地の長袖とジャケット。シャツとジャケット。革靴。スウェード。革靴。全く同じチノパンを4枚持っている。大した興味がないからだ。大した興味がないが、敢えて書けばスーツは大嫌いだ。機能性がなくただ重く動きにくく夏は暑く冬は寒いからだ。カッコいいスーツとカッコ悪いスーツの差は、私にとっては「いい匂いのするウンコ」と「イヤな匂いのするウンコ」でしかない。

そうやって身体性から精神を切り取って、興味があるのは常に脳内のありもしない「ない話」だけ。それが私だ。ウイスキーとニコチンで脳を焼いて、焼畑にトウモロコシが生えてくる。それがわたしだ。トウモロコシ畑ではレプティリアンが盆踊りをしている。

ただ、一方でわたしが達しえなかった、身体性による表現が重要であり続ける人生も、非常に意義深く興味深いものであると思う。ネコタクは言った。「お前は他人のそれにはなぜか興味を持つのだが、それは曼荼羅の鏡像でしかない」と。そうなのだ。わたしは他者の身体性には興味を持つのである。他者の身体表現性は面白く感じるのだ。それが重要である人生はそれ単体で面白い。価値がある。まして宇宙にばらまかれたすべての人間、人体、その分散と各個体による自己表現は総体として見ればカオスの窮極であり、その全体像はまさしく「曼荼羅」である。その宇宙から「わたしが」外れてそれを眺めている。曼荼羅は常に私という鏡像に映るーーもうやめておこう。私は鬱病患者ではない。

私は快活な人間であると思う。快活だが、ひねくれている。その程度の自覚はある。だが前向きに、幸福になろうと思っている。わたしは前向きな性格である。ただ、常に後ろを見ているだけだ。わたしは前向きだから、こういう自分を人類中の特異点とはとても思わない。この文章を読んで「これはわたしのことだ」と思う人間だっている(という可能性は数学的にはゼロではない)はずだ。

畢竟するに、私は「肉」という物体に対してどちらかと言えば前向きなのである。ただ、常に後ろを向いているだけだ。私は後ろ向きに歩いている。だから視点が捻くれている。

 

クジラの化石に手が届くかもしれない

 

こういうことを言おうとするのはよくない。現実を直視していない者のたわごとだ。こんなものはペテンだ。悪鬼の言葉だ。呪詛だ。そういうことは、せめて実際に届いてから言うべきだ。悪いマナーだ。まだ確定していない未来を不確かな可能性として見せることで自分の存在域を大きく見せるようなことは、慎まなければならない。私は深く反省した。

自戒の念を込めて、こういうことも恥を忍んで書いておくことにする。

 

あと少しで、クジラの化石に手が届く。

これは、正確だ。書いていい。

 

 

(おわり)