そんなこともアロワナ

そうでもない。

ツイートの下書きたちの供養

 

供養の時間である。ツイートの下書きたちの供養というものは、本来2020年においてこなければならないものだが、2020年のわたしにはそのための時間がなかった。わたしには時間がなく、いくじもなく、従って供養の時間が必要となった。日々を繰り返し生きる中でTwitterのアプリを開き、あれこれ綴る言葉を考えるが、それは「吟味する十分な時間がない」ために下書きへと送られる。Contemporarityを損なった文章はツイートにはなり得ない。だから普通はそれを防ぐための努力をしなければならない。にもかかわらずそれを良しとするくらいには、わたしには時間がない。わたしには時間がなく、それを言い訳にするほどいくじもなく、したがって供養の時間が必要となった。

この書き出しは『海辺のカフカ』の英訳(日本出版貿易社)を読んだことのある人間にとっては「またやってるよ」という印象を抱く類のものである。

引用の形式を取るが、原典は無い。

 

働きたくないという言葉が単体で成立することはありえない。「働く」という行動は存在しないためである。確率的過程において「働く」は「労働」の概念と同値となるかもしれない。

 

思えば「働く」という単語には極めて高い「社会性」あるいは「社会リテラシー」とでも言うべき概念が内包されていると感じた。

労働とは究極的には「食い扶持」であり、人間の生存が世界から許容されていないために必要な行為である。しかしこれは補助的かつ従属的な行為でもある。というのは、これらの単語は大きな連なりの部分要素を示すのみであって、生存には「食う・寝る・着る」が必要であり、さらにそれら全ては「金」を要求するため、その最も確実性の高い生産方法として「労働」が通常選択される、といった構造をしているからである。そうすると、この構造から導かれる「働く」や「労働」、「仕事」と言う単語は「食い扶持のためにやっている」という手段性を帯びる。と言ったような理由から、これらはネガティブな属性を貼り付けられがちである。

そうすると、「自己の生活に満足した日々を謳歌する中で金銭が受諾できるシステムを構築するか否か」ということは重要な争点になる。これは、金銭の受給が常にポジティブな行為の対価として得られるかと言う問いかけでもある。「好きなことを仕事にする」というような平易な概念でも良い。達成されれば、「労働」という概念から切り離された生活が顕されることだろう。が、もちろんそのような生活の中でも稀に自己を捻じ曲げて仕事(金銭のためのプロセス)に向かわねばならないこともあるだろう。我々にとってどれほど多くの学術研究プロセスの部分要素が楽しくとも、「クソ」と言う言葉をつけたくなる事態は夥しく襲いかかってくる。それは「襲いかかってくる」ものであり、自己の制御範囲を逸脱する。その確率は低いか高いか、それはどちらでも同じことだが、サイコロを振って1を出すと「クソ」を引く、というような話である。死ぬまで、あるいは時の果てまでサイコロを振って1が出ない確率はほとんどいたるところで0である(1/6をn乗する高校数学である。事象としては存在する、決して「絶対に起こり得ない」という意味ではないが、その極限は0であり、従って「ほとんど至る所で」0である)。その意味で、「労働は自己を抑圧するものである」という概念は数学的には正しいかもしれない。

要するにこれは「リテラシー」であり「認識論」の問題である。「仕事」とは時の果てまでネガティブである。が、「ネガティブ」をありがたがる人々もいる。そこがいかにも難しい人の在り方であろう。

 

自由は端的に素晴らしく不自由の上位互換であると教わるが、これは解釈論である。またはイデオロギーである。実際には、ある部分では自由で無い方が便利で助かるということも多々ある。そしてそれもまた解釈である。

 

わたしは大学生の頃、この話をした時、「それは自由の方が豊かで恵まれているに決まっている。なぜなら自由は素晴らしいものであり、不自由は自由ではないから素晴らしくないのだ」と頑として譲らない人間を友人の中に認めて、深く失望したことを覚えている。それほどまでにこのイデオロギーの浸透は根深い。

根の深い話をするのはやめておこう。ここでしたいのは明日食べるものが「選べる」のか「選ばなければならないのか」という問いかけである。『La leggenda del pianista sull'oceano』(邦題: 海の上のピアニスト)という1998年のイタリア映画があって、わたしはそれがすごく好きなのだが、「決めることのできる人生」と「決めなければならない人生」との違いは解釈論でしかない、ということを話すときによく引用する(もちろんそれが映画の主題でないことは理解している)。

少し違う話で、スティーブ・ジョブズは全く同じ組み合わせのトータルコーディネートを何着も持っており(というよりそのほかに服というものを持たず)、それによって脳のリソースを「服装」に費やす時間から切り離していたという有名な逸話にしてもそうなのだが、「自由」というのは同時に「束縛」でもある、ということは往々にしてある。彼(ジョブズ)は自身が服を「選ばなければならない」という「束縛」を嫌って、それをそっくりそのまま自己流のルーチンに押し込むことで無効化した。

この点に関して、「自己流のルーチンに押し込むという手段を選ぶ自由があった」という解釈を介せば(それもまた自由ではあろうが)、彼は真実自由に救われたと読むことも可能であるが、しかし「彼はその自由を行使せざるを得なかった」と、このように押し問答が成立する点では、「自由という名の不自由」が円環構造を持って形而上の真実として発現する(場合がある)ことそのものは疑問を挟む余地がないように思うわけである。自由とはそのまま不自由を意味するのである。当然これは「解釈できる」自由であり、「解釈しなければ意味を持たない」不自由であると言える。

私は、個人の世界解釈として、実に不自由を好む。住居は不自由でよく、服装も不自由でよく、髪型から顔面のありように至るまでが不自由で良く、食事さえ決められたものが決められた時間に現れるのを心より好む(本当だ)。たとえば私が研究活動においてよく従事することになっていた(最近はそういう案件がない)「あるフィールドにおける調査」というものでは、寝る部屋は決まっており、食事のメニューは決まっており、そのために起きてくる時間やら寝る時間やら、作業従事時間は概ねほとんど決まっていた。もっと言えば「会う人間も決まっていた」し「会話内容のジャンルも決まっていた」。そして、そういった生活が1ヶ月程度続くものであった。私はそのような不自由な生活が心底好きだった。その不自由は、私の「自由な研究活動と思索と作業内容」を守るための最善の手段だったからだ。それらを全て自分でマネジメントするというのは、はっきり言って不可能であるように思う。私は愚かで、能力に乏しく、超シングルタスク型の、しかも凡人であるが故に、それらに手を回すと「本業」が空中分解して消えてしまうのだ。

不自由さは、私の解釈では、ある程度は必要なのだ。「誰かに決めてもらえるならそれに越したことはない」のである。多くの人にとって「新型コロナウイルス感染症の対策でというのはわかるが」、「それでも出社したい気持ちがある」というようなイメージが残っているのは、このあたりも関係していよう。一概に作業効率を基準に語るべきことでもない。人は自由を欲しながらも不自由さの中でこそ快を得るというのは、大衆心理学的にも周知のことではあるのだし(そんなことは求められていないので、引用はしない)。相反する二つの相の臨界で人は揺らいでいる。私とて「不自由」だけに興じるのは好まない。大切なのは「自由である」自覚と、それを自覚させるに足る十分量の「不自由」だ。双曲線の問題に違いない。

ただ、そうだな。翻って根の深い話を補足するならーー私が深く失望したのは、「自由を尊ぶ」イデオロギーそのものではない。「不自由もまた素晴らしいのだという解釈」の側に立ってものを考えるということをしなかった彼の言論空間に対する不誠実さに失望したのだ。議論が面白ければそれで良いではないか。中身などどうでもいいではないか。自分の考えなど関係ないではないか。そんなところである。

私は「話すこと」が好きだ。「議論すること」が好きだ。それそのものが単独で好きであり、内容などどんなものであっても構わない。それは「手段のためなら目的を選ばない」ということである。その傲慢さに呼応して、私のイデオロギーは60Hzで反転している。そのところが悩ましい。自由と不自由との反転にしたって、私が一人で回転しているだけかもしれない。つまり何が言いたいかというと、この文章には「なんの意味もない」。

 

アクアテラリウムイデアを立ち上げようと思う

 

アクアテラリウムをやりたい、やりたいと思ってしばらくになる。以前はオフィスに水槽を立ち上げたり、実家で立ち上げたり、色々と遊んでいたものだが、この数ヶ月で住居を変えることにもなるし新居ではできるだけお金を貯金したいなどという企みもあって、アクアテラリウムを始められずにいる。

そうしている間にも脳内にはアクアテラリウムのアイデアがふつふつと沸き上がり、球状の形をなし、ちょうどシャボン玉のように臨界まで膨らんでは弾けて、大きな一つのアイデアへととけあっていく。その内側に形成される空間は凝縮された霧雨林だ。その膜は、さながら「アクアテラリウム」の「イデア」へと通じるポータルである。私は脳内に手を伸ばすだけでイデアに通ずる権利を得たように見える。今日も脳内にてアクアテラリウムの「あるべき姿」に手を伸ばす。だが触れると弾けて消える。ソリッドな概念ではない。人は時の果てまで、真にイデアを知る事はないのだ。あの霧雨林のミニチュアは、私のシナプスの電気信号中に畳み込まれてのみ存在している。それは11次元空間の畳み込みを人が知覚し得ないのと同様、人智を超えた世界へと通じるソロモンの鍵である。生体電脳カドモニを編成するアマニの器とは、アクアテラリウムのことだ。そして、アムニスとはコスタリカのイボヨルトカゲのことだ。間違いない。私はデウスである。

 

必殺技がほしい

 

たぶん地属性でMPめちゃくちゃ使うやつ。

 

身体性と自己表現が強く結びついている人生というものは、どういったものだったろうか。

 

私が「ネコタク」(ネコタクシーの略だ。ネコタクシーは「ナルコレプシー」の聞き間違えからきている。さらにその由来は彼の本名となる。ここで打ち止めだ。)と呼んでいる、京都の鴨川近辺に神出鬼没に現れる死んだ魚を殺したような男の目をしている、仙人のように長い髪の、私の8つ歳上の男に、「お前は精神ばかりに着目して生きているが、その精神への着目じたいが、ひとつの身体活動であることを忘れてはならないのだぞ」という忠告を受けたのは、もう6年も前の雪の日だった(彼は実に本当にこういう言葉で話す)。前の晩の大雪の名残雪がサラサラと流線を描いて滑り落ちる曇天の鴨川を、下駄をガラガラと鳴らしながら下品に歩くネコタクと、オレンジの登山靴を履いた実に上品なわたしが「糺の森」の雪化粧を見にこうとしていた時だ。

ネコタクが言いたかったのは、私の精神的な、「紙とペン」の上での、パソコンのモニター上での、計測装置の内側での、それらあらゆる空間に実存として存在しえない「形而上の」事柄への執着というのは、私自身が肉体的な「快」に乏しいからではないか、ということではなかろうか。そして、そうであればこそ、しかし私の脳はわたしの肉体に固定されているのだから、意識として身体を嫌う事は危険だ、という忠告であろう。

たしかに、ある意味でそれは正しいかもしれない、と思う次第であって、わたしは「身体」を自己表現の空間としたことがあまりなく、それをする値打ちをあまり感じていないということである。たとえばタトゥーなどをする動機に「決意を肌に刻み込む」とか「おしゃれになりたい」というような文言を聞くものだが、はっきり言って全く共感できない。刻み込まなければ忘れてしまうものは決意ではなく思いつきであるし、おしゃれは外的装飾品によっていくらでもできるものであるから、日本国における社会的デメリットを被る手段にまで手を出すにはよほど「おしゃれ」を極めなければならない、などと思うのだが、これはわたしが身体的表現性に共感できないことからくるのだろう。わたしは自身の胸の内に「クジラの化石に手を伸ばす」という信念を掲げて20年になる。わたしの表皮にそんなものは刻まれていない。私の信念はシナプスの電気信号中に畳み込まれてイデアとして存在する。だがこれは逆説的には(まさにネコタクの言った通り)極めて身体的なことである。これは、「脳」という部位、あるいはその分節上の辺縁構造物としての「人体」に高い重み係数を設定した自己表現、そうとしか表現できまい。

ネコタクの憂慮通り、私の人生には意識として身体的表現が重要であった事はほとんどない。幼少期において「小児喘息」は私を蝕んだが、幸いにもそれは私からプライドや快活さを奪うほどのものではなかった。青年と呼ばれるようになってから、ほとんどの若者がそうするように「セルフポートレート」に手を出すこともあったが、あまり興味が保てなかった。服飾にもさほどのこだわりはない。見窄らしくない最低限が保てればーーつまりわたしの最低限の社会活動を阻害しなければーー構わないと思っている。それで、いつも数種類の衣服を着まわしている。無地の長袖とジャケット。無地の長袖とジャケット。シャツとジャケット。革靴。スウェード。革靴。全く同じチノパンを4枚持っている。大した興味がないからだ。大した興味がないが、敢えて書けばスーツは大嫌いだ。機能性がなくただ重く動きにくく夏は暑く冬は寒いからだ。カッコいいスーツとカッコ悪いスーツの差は、私にとっては「いい匂いのするウンコ」と「イヤな匂いのするウンコ」でしかない。

そうやって身体性から精神を切り取って、興味があるのは常に脳内のありもしない「ない話」だけ。それが私だ。ウイスキーとニコチンで脳を焼いて、焼畑にトウモロコシが生えてくる。それがわたしだ。トウモロコシ畑ではレプティリアンが盆踊りをしている。

ただ、一方でわたしが達しえなかった、身体性による表現が重要であり続ける人生も、非常に意義深く興味深いものであると思う。ネコタクは言った。「お前は他人のそれにはなぜか興味を持つのだが、それは曼荼羅の鏡像でしかない」と。そうなのだ。わたしは他者の身体性には興味を持つのである。他者の身体表現性は面白く感じるのだ。それが重要である人生はそれ単体で面白い。価値がある。まして宇宙にばらまかれたすべての人間、人体、その分散と各個体による自己表現は総体として見ればカオスの窮極であり、その全体像はまさしく「曼荼羅」である。その宇宙から「わたしが」外れてそれを眺めている。曼荼羅は常に私という鏡像に映るーーもうやめておこう。私は鬱病患者ではない。

私は快活な人間であると思う。快活だが、ひねくれている。その程度の自覚はある。だが前向きに、幸福になろうと思っている。わたしは前向きな性格である。ただ、常に後ろを見ているだけだ。わたしは前向きだから、こういう自分を人類中の特異点とはとても思わない。この文章を読んで「これはわたしのことだ」と思う人間だっている(という可能性は数学的にはゼロではない)はずだ。

畢竟するに、私は「肉」という物体に対してどちらかと言えば前向きなのである。ただ、常に後ろを向いているだけだ。私は後ろ向きに歩いている。だから視点が捻くれている。

 

クジラの化石に手が届くかもしれない

 

こういうことを言おうとするのはよくない。現実を直視していない者のたわごとだ。こんなものはペテンだ。悪鬼の言葉だ。呪詛だ。そういうことは、せめて実際に届いてから言うべきだ。悪いマナーだ。まだ確定していない未来を不確かな可能性として見せることで自分の存在域を大きく見せるようなことは、慎まなければならない。私は深く反省した。

自戒の念を込めて、こういうことも恥を忍んで書いておくことにする。

 

あと少しで、クジラの化石に手が届く。

これは、正確だ。書いていい。

 

 

(おわり)

デミウルゴスの空に

 

人生とは回転である。

全て回転は熱力学第二法則に従い、やがて静止する。それが死である。

それが結論である。

 

世界は無知によって生み出されなければならないのかもしれない。

そして見なさい、あの雲から姿を現した1人の天使を。その顔は炎で輝き、その姿は血で汚れている。彼の名は「ネブロ」と言ったが、それは「反抗する者」という意味である。別の人々は彼を「ヤルダバオート(混沌の子)」と呼ぶ。もう一人の天使「サクラス(愚か者)」もまた、その雲からやってきた。そこで、ネブロはサクラスとともに、6人の天使を創造して助手とし、それらが諸天に12の天使を生みだし、そのそれぞれが諸天の分け前を受け取った。

 

ユダの福音書

 

人間というものは、それ自体が邪悪にして愚鈍なる神によって生み出されているのでなければ、「エンターテインメント」たり得る世界を構築し得ない存在である。

これは徹底した逆説であり、背理法の原理により導かれる。世界が「神なるものによって作られた」ことを肯定する場合においても、その世界は「偉大なる計画のために作られていてはならない」ーーなぜならば、世界の成り立ちそのものに「間違い」がなければそこに「主人公の行動」が起きないからである。故に、古今と東西を問わず「世界」に挑む物語は(少なくとも主人公の内面においては)、世界とはデミウルゴス(ヤルダバオート)の被造物である。

無論、「主人公」を「悪魔憑き」、小さな「セカイ」の外側に「大きな世界」がある、などと適切に設定すれば、大いなる計画にてこれらの全てを内包することも可能であって、それゆえにグノーシス主義は敗れ去ったわけでもあるが、少なくとも創作物においてデミウルゴスは生きながらえているように思う。

そこのところがまさに、創作物が挑むべき「神との戦い」なのかもしれない。

 

執筆とはアキレスと亀である。

実はアキレスと亀である。私は何を書いてもいいと言われた場合、つまりこの記事のようなものを書けと言われた(そんなことを私に要求する物好きはおるまいが)場合、日本語なら1日に2.5万字くらいを書けるし、英語なら6000 words/dayくらいで書ける。 書く内容をちゃんと考えながら書けと言われたら、まあ、かなり作業速度は落ちる。それでも、たとえば執筆というのが私にとって非常に大きな仕事である場合において、1日あたり5000字、2000 words/dayといったところだろうか(こんなことは私のAbility descriptionには書いていないが)。差が縮まっているように見えるのは、そもそも言葉を思いつくスピードがボトルネックになっている前者に比べると、後者は内容で詰まっているので、言葉を思いつくスピードがあまりも話題にならないからだと思われる。

さて、たとえばとても大きな仕事が与えられた時に、5万字くらいで頼むと言われたとする。私は当然、1日5000字を書く。そうすると、5万を5000で割り算することによって、10という数字を得る。その理論でいけば、10日で「完成」するわけである。だが実際に「完成」までにかかる時間は、「無限」だ。

私が50000字を書いた瞬間、だいたい25000字ほどの「完璧ではない言葉」が生まれる。そうすると、私は25000の「完璧な言葉」と、25000の「完璧ではない言葉」を持つわけである。したがって、25000字の「完璧でない言葉」を完璧にする作業が始まり、この作業効率は1日に2500字がやっとである。それが全て終わるのにさらに10日かかる。ほっと胸を撫で下ろす。一息だ。しかし原稿を見ると、12500字の「そんなに完璧っていうほどでもないし、さっき直したところとの関係で完璧が崩れちゃった言葉」が湧いて出る。それを直すのに、私はまた10日かかるーー。

つまりそれこそが「アキレスと亀」である。この世界はどうやらデミウルゴスが作ったらしく、現実世界には「永遠に執筆が終わらない」というバグが存在している。この致命的なバグを解決する方法は存在せず、私は永遠に執筆を終えることがない。そして、どうやら私は「人間」という、いつか死ぬ生き物であるため、執筆を終えることなくその儚い生涯を終えるのである。そして皆さんも私と二度と会うことはなかったのである。おしまい。

ーーだが普通の場合、私は、お終いにはなりたくないので、「奇跡の大逆転必殺ビーム」を撃つことにしている。その奇跡の大逆転必殺ビームは、名を、「筆を置く」という。それこそは、無限の時間に囚われた執筆作業の輪廻を破壊し、デミアルゴスを粉々に粉砕してイデアに到達する唯一の手段である。執筆とは無限に続く時間の牢獄である。筆を置くことでしかそれを終わらせることはできない。いつ、なぜ、どのようにして「筆を置く」か。その問いかけこそが我々「書くもの」に課せられた絶対の法であり、真なる戦いの舞台である。

 

ちなみに別名を「妥協する」と言う。

かくも世界は言葉でできている

 

 

冬がきたわよ。

諸々をさておき、さてさて置き置き、なんと言っても冬である。京都という町はバカなので、先週すでに雪が降っていたのだが、こういうことを言うと北海道の人が飛んできて「北海道はもっと寒いビーム」をめちゃくちゃに撃ってくるので、冷静で賢明なる諸君はそんなこと言っちゃダメだよ。とにかく京都は度し難い町である。夏は人が死ぬほど暑く(たとえばエジプトのカイロより気温が高い。)、そのために熱がこもりにくい家屋が作られ、したがって家の熱はすぐに外に出ていき、そうすると今度は冬の寒さでほとんどの生き残りが息の根を止められる。外気温と室内温度が全く同じになる家、それが京都の家屋である。私は大学生の頃、築25年の燻銀のアパート(私はあれを燻銀といって譲らない。ボロアパートではないのだ)に住んでいたのだが、顔面に霜が降っていたことがある。バカである。本当に度し難い。だがそんな度し難いところに、何か愛着を持っていたりもする。人間は誰も、完璧じゃないから。

かなりでかい原稿(200ページある)が脱稿とあいなったので、ようやく私の世界にも「年末」というものがやってきた。忙しさから放たれて冬の寒空を見ると、どうやら冬の寒空に見上げるオリオンというものは美しい、と言うことが朧げながら明らかになる。冬の寒空を見上げるほどの余裕もないのが私たちだ。このあまりにも弱すぎる人類というクソザコナメクジ(人類はナメクジじゃないよ)は、これほど鮮明に煌めく輝きを忘れることができるのである。今度こそ忘れまいと、両の眼で射止めるが、明日には明日の太陽に脳を烈しく焼かれて、私たちは私たちの「私たちの人生」などというなんの意味もない情報をインプットされてしまう。オリオンは消えてゆく。ああ、冬はそれ自体が毒素か。私は美しさを忘れるために美しさを見つめるのだ。オベロンよ、私を嗤う薔薇を用意するが良いーー。

ーーというのは私ではない、デミウルゴスの嘆きだ。こんなにも美しく輝く当のオーリーオーンは、サソリに追われて天を駆け回っているのだから、我々がこの星空を見ていられる時間がそう長くないことは当然のことだ。みなが無様に走り回っている。私もあなたも、日々を周り、年を回り、寝ている時ですらベッドの上を回り続ける。地球さえも公転周路を無様に転がり続けている。太陽も銀河系を回り続ける。ならば私たちもけたたましく衝突音を立てて回ろうではないか。この、なんの意味もない日々と、忘れるために思い出す美しい輝きの公転周路を。

 

雪の日に 北の窓開け シシすれば

あまりの寒さに チンコちぢまる

 

秋山真之(幼少期の和歌)

 

そうだな、大人になった彼はもう少し、空を見たりするようになったのだろう。私たちがそうであるように。それは悲しいことだが、素晴らしいことだ。

 

本日天気晴朗ならずとも、私は生きていく。

 

私に迷いはない。世界はデミウルゴスによっては作られてはいない。クジラの化石がその証拠だ。

 

(良いお年を)

 

ない話

 

昨日も私は、いつものようにハービモラ産のグマグマを燻らせて(ハービモラのグマグマというのは、実際にはグマではなく七次元アヒルの糞を乾燥させたものに、ピャートの実を少しすりつぶして加えたものだということは、これを読むようなトンチキの貴方には当に了解のことだろうか?これは少しばかり重要なことなので、注釈に移さずに本文に括弧書きで載せることを、僕はあの、実にトンチキ野郎であるところのヘスにわざわざ頼んでおいた。そうなっているだろうか?※)京都市は糞京区にひっそりと立つ雑居ビルの五十三階にある寂れたバーの置き時計の立てるケメケメという洒落た音を聴いていた。モジャモジャは黙ったままだ。ここのマスターはそうする。

 

マスターは私の頼んだウォッカマティーニエレクトロニカではなくグルーヴでこさえてくれたわけだが、どっこい、その日はエレクトロニカの気分だった。とはいっても、そのくらいのことに目くじらを立てるような人間第三級第一等市民の私ではない。まあ、よもや人間第二級第四等市民にとってはそうではない、という話でもあるまいが。

 

とにかく、乾燥キンダーガートン・コップを冷水で872時間かけて戻したものをつまみに、グルーヴのウォッカマティーニを傾けていた時のことである。

私の古い友人で、今は聖ガランダルク修道院士官学校付きでオキンタマ式剣道の教官をやっている男が店に入ってきた。待ち合わせをしていたわけではない。

 

「コマネチ!」

 

首を傾けながら、その男ーー名をハゼと言うーーは神妙な顔つきで少々堅苦しすぎる挨拶をした。

 

「トンボ」

 

私は挨拶を返す。こんな時間にこんな店に来るなんて、お前にしては珍しいじゃないか、パロパロ鳥にでも脛をかじられたか?と聞く私に、ハゼは肩をすくめて、コートを脱ぎながら答えた。

 

「纐纈鯨の群れ。ニュース見てないのか?」

 

はっとなってバカフォンを脇ポケットから取り出した私は、その8枚目のモニターに四等級国民アラート(市民アラート)が表示されているのを認めた。電脳宇宙鯨による全路線遅延が発生しており、960年間は登り降り全線運休の見通しとのことである。それで、ハゼは立ち往生をくらった、ということらしい。

 

コールドスリープのアテは?」

 

「有ればこんなところにグマを鑓りに来てないよ」

 

グマグマには時間圧縮作用があることは当然、少々学校でも習うことだが、それを頼りに960年間を過ごすというのは乱暴すぎる気もした。

 

「うちに泊まるか?」

 

私はそう言って、自分のグマをビール瓶に放り込んだ。ビール瓶とは、この用途以外に使うことのない、なんの役にも立たない容器だ。ハゼは、エラをパクパクさせて、グマグマに火をつけようとしていた手を止めた。

 

「カミさんに怒られないか?」

 

コールドスリープくらい、いいだろ」

 

「知らないぞ、怒られるの俺なんだから」

 

ラプラシアン

 

私はそう言って宥めると、バカフォンを3回握りつぶした。ショートカットキーは便利だ。すぐに私の家に電話がつながる。

 

「私だ。今からハゼを家に遣っていいか?」

 

すると、

 

『おかけになったカミさんは、現在、使用料金の未納・延滞につきまして、機能凍結されております。バカフォンに転送の情報に従い、入金をいただかない場合、あと86年と9時間7分でこのカミさんは縮退連鎖爆発します』

 

と、電子音が喧しく鳴り響いた。私はバツの悪い顔をした。眉間の電子制御端末は不愉快な極彩色に染まっていただろう。ハゼは開いたエラが閉じなくてパイナポー・ピーナッツという顔をしている。困ったな。

 

「入金はできそうなのか?」

 

「グマをやりすぎた。抜けるのに160年かかる。まいった」

 

「バカだなあ、お前。俺が貸してやるよ」

 

「悪いな」

 

「いいよ、こっちも"心地よい一瞬の死と保存される満ち引きのない黒き月の大海"を借りるんだから」

 

ハゼはバカフォンを出し、私のバカフォンと合わせて、それらをまとめて真っ二つに折り曲げた。ミシミシという音が15回鳴った。

 

「よし、じゃあこっちで振り込んでおくよ」

 

「助かる」

 

そんなことを言っていると、バーのマスターがおもむろにモジャモジャの電源を入れた。モジャモジャは口を開いて、中から小さいおっさんが飛び出してくる。いつものTVショーだ。

 

『えーー、鯨ですけど、なんだか、繁殖を始めたらしいです。遅延の見込みは1960年までーー』

 

やれやれ、もうこの街も潮時だな。

次はどの京都に行くか……。

 

「そうと決まったらスリープいこうぜ!」

 

ハゼが喜び勇んで飛び出していったが、当然ビルの半分を吹き飛ばしながら突撃して来た宇宙クジラが、むやみやたらに神経クラッカーを撃ち込んだので、それに脳を貫かれてハゼは死んでしまった。

 

死んでしまった?電脳クジラのキャパシタンス・ユニットとして未来永劫にわたり化石になることもなく生きていくハゼを「死んだ」と捉えるのは、私の生死観ゆえのエゴなのかもしれない。

なんにせよ、このバーは吹き飛ばされてしまったので、私は今、衛星軌道上からこの原稿を書いている。

 

ああ、次の京都では、いいクジラの化石に出会えると良いな。

 

 

(コマネチ!)

 

 

※編集部注:本来,筆者の意向の通り伝えるべきではありますが,原文のエキセントリックな文字の整列が,読み手の脳内にメバンガニの好物であるニューロシナプス・アバレンビューロ・オチンポコを生成させ,その捕食対象となってしまうことが判明いたしましたため,世界中で起こりうるパニックを抑制することを目的とし,一部修正しております。ご了承ください。なお,筆者は執筆後にメバンガニに捕食され死亡。

おもちゃの写真を貼る

 

ロックマンゼロのプラモをだいぶ前に買ったのだけれど、忙しいなりにアレコレやりながらようやく完成させた。

なんだかんだ2ヶ月くらい触ってた気がする。

 

写真とかを貼っとこうかと思う。

キット自体はこれ。

 

 

プロポーションがかなり良く、細部のアレンジが細かく、いい感じ。

まあ、

 

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結論から言うと、こうなった。

ゲージ処理、エッジ出し、全塗装(部分的にサフ使わず)、セイバー刃部分の造形作り直し(UVレジン)、一部モールド彫り込み、合わせ目は消したところとそのまま残したところ1:9(キットが消すなと言っていた)、傷入れ、ウェザリングトップコート(艶消し)、マント自作。

 

キットの合わせ目の位置があまりにも優秀で、素組みでも全く気にならないように出来てて素晴らしかった。

エッジを綺麗に出したいパーツが多いのと、脚のパーツがキットの個体差なのか若干締まりにくい箇所があったので、その辺り踏まえてゲージ処理だけ丁寧にしたほうがいいかなという感じ。150番くらいのヤスリでガリガリした後、耐水サンドペーパーで300→600→1200→2000番くらいまでかければいいと思います。

色の深いパーツが多いので誤魔化しが効かない。ぶっちゃけプラモデルで一番時間かかるのここね。

 

キットの成形色の状態で素組みしたところ、ボディのパープルが暗すぎて、逆に赤は軽すぎると思ったので、コントラストを弱めてオフセットをあげる方向で調色。

赤は印象的に、紫は上品にできて、明るしたおかげで傷もつけやすくなってかなり良かった。

 

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塗装だけしてちょっとだけスミとか入れてる段階のやつ。なぜビニル袋の上に置いたのか?その謎は君の手で解き明かしてくれ。

かなり色が良かったんで、このまま仕上げてもいいなとは思ったけど、どうしても気持ちを抑えきれなくて汚した。

 

男の子にはそういう時がある。

 

決して成形色をディスってるんではない。

成形色のイメージは、「ロックマンゼロ」の、つまり「1」の、パッケージイラストのゼロの色味といえばわかるだろうか。あれをちょい紫にした感じ。

あれはあれでかなり良い。

 

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引用だよ。

 

なんかゼロのフィギュアって言ったらこの配色のイメージないですか。ゼロのボディカラーは黒に赤、みたいな。

 

ただ、なんというか、2以降の作品のゼロは(とくにパッケージイラストなんかみたら明らかなんだけど、)「黒」く見えないように、色味が明るくというかさっき言ったように、描かれるようになっていだ感じがするわけで、僕はそっちが好きなので。色のイメージをそっちに寄せた形。

4なんてむしろ青っぽいもんね。

 

ゼロのイメージって紫と赤って人が多いんじゃないだろうか、プレイした人は。

黄色も映えるし。

 

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少し色調補正かけてある写真。

マントは印象よりかなり大きい。

 

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全体を覆うこともできる。ちゃんと前も閉じる。学ランのホックみたいな構造で止めてあるので簡単に着脱できる。

 

もちろんマントはロックマンゼロ2のオープニングから。あのボロ布ってどこで調達してきたんでしょうかね。

 

質感的にもトラックの荷台を止めるためのエステルの帆布(緑のやつ)って感じでもないし、ネオ・アルカディアのレプリロイドにこんなもん要らないし。

 

戦闘の時に脱いでるから、防護的な意味はなくむしろ動きにくくて邪魔。ただの防塵のための布だとすると、傷ついて回路やら駆動系やらなんやらが露出してる体を荒野の砂塵から守るために手に入れたのは間違いなさそう。

ひょっとすると、100年前の人類の生活跡みたいなところから、たとえばテントとか天幕とか何でもいいんだけど、そういうところで風化している遺骨なんて見ちゃったりしながら、引っ剥がして来たのかなとか。

 

そう思うと深みがあっていいですね。

(ただの妄想なんだけど)

 

なんにせよ、ゼロシリーズのゼロってそういうボロボロのイメージがある。似合う。Xシリーズの方はザ・ヒーロー・メカニンジャ!みたいな、わかるかな、イメージなんだけど。

どっちもいいんだけど、Xシリーズのゼロとゼロシリーズのゼロを見比べた時に、汚し甲斐があるのは明らかにゼロシリーズの方なんだな。

 

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怪しく光る豆苗はさておき、顔周りはこういう感じ。かなり意識的に汚している。角とアンテナの壊し方はロックマンゼロ3のエンディングを意識したものに。

 

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Everlasting Redなのよ。

やっぱ。

ほかの部分は、例えばヘッドギアは撃破した敵のレプリロイドの爆風で相手の吹き飛んだ顔面やらが飛んできて、それが当たったらどんな傷と煤がつくかなとか考えながら刻みました。

 

ウェザリングはこの辺のを使うと便利&楽で良いですね。

 

 

粉っぽいのはウェザリングマスターでつけて、陰影はリアルタッチマーカーのグレーを全体に塗ってから…

 

 

乾き切る前に

中心部分からげきおちくんですりすりすると素晴らしく出来ます。今回はボディ部分くらいしか使わなかったけど。

 

スミ入れは流し込んでも良いんですが、このくらいのモールドがしっかりしてるキットなら、

 

 

0.01のコピックで直接引いちゃっても良いですね。

全塗装はハードルが高くても、リアルタッチマーカーくらいやってみると劇的に出来がよくなるのでオススメ。

(リアルタッチマーカーのブラウンは鉄サビの表現にも使えるので、戦艦とかの塗装に向いてそう。)

 

 

動きがつけやすいのも今回のキットのよさみ。

 

ロックマンゼロ2のオープニングのアレ。

気だるそうに(うんざりして)敵を見やり、

 

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チッ…

 

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バサッ

 

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しつこいヤツらだ…

 

目の前に敵が現れたら叩き斬るモードに。

 

みたいな。そんなイメージ。

(こうしてみると棚、埃っぽいな。)

 

顎をよく引けるのでニュアンスがつけやすくて表情が閉まると言うかおもちゃらしくない感じがいいね。

 

今忙しいんで、余裕ができたらあと2つ買って、片方はオメガにして、もう片方はジオラマ作って研究所の封印ゼロって感じにして。

なんかメーカー的にはコピーエックスも将来的に出すみたいなこと言ってたから、コピーエックスも作りたいし、そうなるとアレ作りたくなるんですよね、ミュトスゼロ。

 

まあそんな遠大な夢はのんびり叶えるしかないのが仕事人というもので、とにかく一通りやることやったので形に残しておく。

ジオラマとかまで含めて出すとなると年単位で先になりそうだ。

 

あと唯一気に入ってないのはセイバーの発光システム。もう少し何とかならんか。色ももう少し青くていい。自分で作るかなあ。

いろいろ試して、いい形式を見つけたら、オメガのセイバーにも転用したい。

LEDをもっと刃の中に(レジンの中に)仕込んでしまって、もう光らせるの前提にして外側にスモークかけたらいいのかなあ。

ライトセーバーのおもちゃとかそうでしょ。

Saw you stretched out in room 1009.

 

たいがいの場合、私は「クジラの化石」か、「1009号室の人」のために生きている。

「悪魔」と戦うのは私の目的だが、主題ではない。

 

 

 

STAR WARS ep. 3』が好きだ。

なので、『ゼルダ無双 厄災の黙示録』も多分好きだろう。好きなものになる気がする。

すでに決定された結末に向かって進む物語が好きなのである。そういう時にこそ、作品の構成力が試されると思う。

 

構成力の高い、構造的に美しい、作劇にテーマ性の高い作品は、何度見ても素晴らしい。私は今までに『トップをねらえ!』『トップをねらえ2!』を観たことが6回あるが、6回とも感動のあまり涙をながした。

その感動は回を重ねるごとに増すばかりである。6度目の「2!」などは最高であって、第1話、冒頭のモノローグ「神様を見たことは、たぶんないと思う」だけで泣いてしまった。(今日は『トップをねらえ!』の話がしたいわけではないのでこれ以上は語らない。)

はじめから結末が分かっていた方が細部に集中できて、作品の持つバリューを的確に捉えられるように思う。

 

「何も知らず」に物語に触れた場合、

ストーリーの転換点で観客は「驚く」場合がある。これが観劇の体験を面白くする場合がある。だいたいの場合、この「驚き」は1回しか得られない。その上、刺激物でもある。だいたいこのようなことが理由で、大概の人はこういった「驚き」が損なわれることを嫌う。

要するに、私の身の回りも「ネタバレが嫌い」だという人間が多数派であった、ということである。

 

それもひとつの楽しみ方だろう。

だが私は、個人的には、「人を驚かせる構造」を捉える方に興味が向くので、あまり「自分の身体感覚としての驚き」は重要だと思わない。

「ああ、ここでこういう考えに誘導しておいて、ここから崩して、ここで裏切るんだな」と認識する方が、自分が実際にそれに直面して驚いているよりも楽しい。

 

要するに、サディストで、エゴイストで、そして臆病者なのである。

 

構成のレベルが高く、構造が美しく、作劇にテーマ性が高く、欲を言えばすべてのピースが綺麗にハマっているような物語のプロットそのものが好きだ。言ってしまえば、「あらすじ」だけを読んでもそれなりの感動を得られるタイプの人間なのである。

さらに究極のことを言ってしまえば、「読む」より「書く」方が向いている人間なのだと思う。自惚れが許されるのならば。

 

研究者は、作家でなければならない。

(私と関わりの強い、ある先人の言葉。)

 

そんなわけで、最近は、「彼は絶対に外さない人間だ」とわかっているクリエイターの作るもの以外は、すべて「あらすじ」を先に読んでしまうことにしている。

私にとっては「驚き」<「構造」なのであり、さらに触れる創作物すべてを2回も見る時間的余裕のない人間であるから、こういう方法が最適なのだ。理想を言えば、1度目で驚き、2度目で構造を知る方がよいだろう。だが、それはあくまで理想だ。つまらない(と、私が個人的にそうおもうだろう、と、私が先見的に認識している)作品に費やす時間が私には無い。

 

しかも、あらすじで構造を捉えていたとしても、まだ「劇」には「驚き」が残されている。それらは「演出」であって、私は演出に驚かされるのが何より好きだ。音響も含めた。

 

 

 

下記、与太話。

 

 

秋風が吹きはじめた。

したがって、私にとって最良の季節が始まった。この季節が最良であるがゆえに、この季節は物事を始めるのに適している。夏の休みをここに動かせば、私の生産性は地に落ちるだろう。その実感はタイピングを疾らせる。

 

いつも初めて出会う気がする。しかし懐かしい気もする。秋は連続的にはやってこない。突然始まるのが秋だ。そこが好きだ。台風がやって来て、夏のあいだにすっかり爛れてしまった街の空気を一掃し、そこに突然「秋」というものを置いていく。

 

目が覚めるような生産性の向上は、マニュアルトランスミッションクラッチを擦り合わせるように、私の口数の回転率をも高めていく。

 

このようにして、私はいつも、私個人についての取り留めのない話をいつもしたいと心がけているが、する相手がいなければ話にならないわけである。我こそは、と思うものはいつでも連絡をよこしてくれ。

インターネット飲み会でも、なんでもいいのだが、そういうものを開くたびに、私は人間の存在に救われていることを実感する。酒は別に飲まなくてもよい。口が回転すればよいのだ。

 

深夜に何かを捻り出そうとキーボードを叩く時、頭を抱えて私の難問と戦う時、私はいつも、私ではない存在によって救われ、その「悪魔」と戦う力をもらうのだ。私のハンドルは、私の哲学に導かれた私の意思でひねり回せるが、トルクを上げるためのガソリンは常にその「私ではない存在」である。

 

うまく戦えているかは問題ではない。

研究者は作家でなければならない。

 

May the good Lord shine a light on you.

 

 

(おわり)

Standin' on the edge of the crater(雑記 8/28)

  

この記事は、「本題」がかなり長い。

しかし、「本題」に入る前に、さらに冗長な「前置き」として、日記のようなものを書く。それは備忘録である。

この備忘録は「本題」ではなく「前置き」ではあるが、それは現実の「私」という人間との、肉体的精神的合一性を持った、「真実こうである」という話を目指したものだ。

そう、私の「本業」についてのお話である。

 

思えばこのブログに「本業」について書いたことはほとんどないように思われる。というか、皆無だ。

最近の「本業」は主に以下の通りである。

 

と言っても、これは仕方ないことだが、ある程度ぼかしているので、貴方にとっては、はっきり言って何のことかさっぱりだと思う。だが、つまびらかに、これをわかるように書けば、私の氏名からメールアドレスまで特定されてしまう。匿名性の難しさだな。

その辺の塩梅がいつも難しいので本業の話はしない。ていうか話が面白くならないからしない。しかし今日は、少し疲れているので記憶の整理がてら書いてみることにする。

 

ちなみに、「本業」はこの記事の「本題」ではない。

 

(このぐらいペラペラと前置きをしなければ書けないほどに、私は「本業」の話をするのが悪しき風習だと思い込んでいる。ああ、悪魔は私の心の中にある。)

 

今週やったこと

 

・三角形要素ないし四面体要素で書かれた構造モデルの、ある種の境界面的なものを自動検出するアルゴリズムを書いた。実装優先のため計算速度を犠牲にしているので、将来的に使うなら高速化処理必須。また本義的にはこれをフラクタル的に展開して空間内の組成的構造的境界をも求めたい。第一微分項と第二微分項をうまく使えばある程度の精度で決まる気がしている。まあ先の課題だ。カルテシアン座標系と三角形要素は相性が良いようでいて、細かいところで困らされる。が、大体うまくいった。

 

・それと付随して、3Dの要素モデルをある種の展開図的に、ポリゴンに変換して平面投影する必要に迫られ、そして方法を閃き、アルゴリズムを書いた。細かいことは秘密。

 

・で、そういったアレコレからできているモデルの複雑度を定量化するとともに、それを単純化して元の構造をある閾値以上に担保するような方法を検討した。が、ここは正直ロジックが怪しい。再検討の必要あり。

 

次にこれをやる。

 

・重力偏差を(簡単に)計算する。このためにある種のプリズム化が必要である。(上記作業を必要とした理由である。)簡単にするために余計に手間をかけるというのがサイエンスの笑える点である。とはいっても、時間がかかるだけで上手くいくことは目に見えている。しかし上手くいったものに「意味」があるかどうかは怪しい。ロジックが尻すぼみしている。とりあえずやってみて、反応を見る。ちなみに、この姿勢は誠実ではない。

 

・最悪、意味がないなと悟れば、簡単な数値モデルでの解析をちゃちゃっとやっちゃうつもりでいる。不誠実ながら。

 

・そろそろ論文の査読結果が返ってくるだろうから、それもだな。

 

全く自分がなんの専門家なのかわからなくなってきた。まだ若い(つもりな)んだから何でもやっておこう。

いや、本音を言えば岩石に帰りたいが。

 

意外とご存知ないかもしれないのだが、私は文筆家を目指しているのでもなければ、教育者でもない。なにせ(こんなことを言うとちゃんとした理論物理屋さんや数学屋さんに「お前なんぞが」と怒られるし、私自身もそれは重々理解しているので、あまり進んでは使いたくない言葉なのだが、分かりやすさを重視してあえて使うなら、)物理屋さんである。

んで、本業をとにかく疎かにする物理屋さんである。本業を疎かにしておいて、今週も親鸞道元を読んだりする物理屋さんである。

 

ここまでは面白かっただろうか?

面白くなかっただろう。その通りだ。

それが分かったら、「本題」に移ろう。

まさに「面白くない」ことが重要なのだ。

 

 

「本題」に移ろう。とは言ったが、しかし私の人生の「主題」は、「本業」か「本題」か、一体どちらなのだろうか?どちらもアクセントにすぎない気がしてならない。

何か、家を一歩出た先にあるアスファルトの苔くらいを見つめることが「主題」であり、それを形容することの難しさが「クジラの化石」なのではないかと思う。クジラというものが化石化するプロセスは素晴らしい。美しい。イデア論的だ。しかしこの美しさは発掘によって木っ端微塵に打ち砕かれ、時の風化に耐えられず、たちまち雲散霧消する。

 

いやはや。

下記、「本題」になります。

 

 

イワシはえらい。

その偉さたるや、魚に偉いと書いて

 

イワシ

魚偉

 

と読ませた方がしっくりくるんではないかというレベルの偉水準(えらすいじゅん)である。なにせイワシは身体の構造上、「エラ」と呼ばれる器官を有している。あまりにも偉いとおもいませんか?エラくてワロタ。

 

どう偉いのか知らない人間がいるのだろうか?

いるわけはないが、書かせてほしい。

たとえば、

 

頭を落としてワタを抜き、小骨をよく取ったイワシを、フリッターにしてバゲットに挟むと非常に美味である。美味なのでえらい。今日の昼もこれを持っていったのを食べた。フリッターには衣の上から軽く塩を振ろう。

サニーレタスとオランデーズソースがよく合う。しかも宇宙的爆発力がある。ただ、オランデーズソースの代わりにクミン・チリペッパー・ガラムマサラコリアンダーオールスパイスなどをふんだんに使ったスパイシーなトマトソースを作り、それにバルサミコ酢を適量加えて合わせることによっても宇宙が発生する。宇宙が各家庭に発生する。こんなことを言うと非宇宙発生家庭からクレームが来そうだが、ホールトマト缶を常備していない家は地球上に存在しないと思っているので、たぶん大丈夫だろう。

宇宙はたくさん発生させた方が楽しい。なぜならば、宇宙がたくさんあると良いから。

いずれにせよ、パンチが足りないと思うなら、紫玉ねぎのマリネを入れるといい。紫玉ねぎのマリネとイワシの相性の良さは、たとえばアンチョビをサラダに使った経験のある者にとっては周知の事実である。バジルを使うのがポイントだと思う。当然、黒オリーブを加えてムテキトリオを作っても良いんだよ。ムテキだからね。人にはムテキになる自由がある。黒オリーブが家にないだって?残念だ。ムテキ保険に入っていない人がまだこんなにいたとは。

 

イワシはどうやっても美味いのでえらい。

梅生姜煮の話もしておこう。

大阪京都で喋ると意外と知るものの少ない料理だ。元は九州の郷土料理らしい。

 

イワシの頭を落とし(これは味噌汁の出汁を取るのに重宝するので捨てない方が良い、と、私は勝手に思っている。思うだけなら人は自由だ。)、ワタを取り出すところまでは同じだ。ただ、こちらは小骨に関しては多少残っても構わない。ちなみにイワシに限らず海魚はワタを取って洗う時に真水ではなく塩水で洗うべきだ。たぶん浸透圧とかそういうのの関係だ。私は詳しく無いのでよく分からないのだが、煮崩れの原因になるとかならないとかだ。またひとつ賢くなっちゃったね。

水・酒・醤油・みりん・好みで砂糖、私はニンニクも加え、鍋にかけて一煮立ちさせたら、千切りにした生姜を入れた上にイワシを並べる。梅干しも入れる。この辺は適当でいい。

落とし蓋をして中火で10分〜15分煮る。仕上げには煮汁を全体に回しかけるのがビジネスマナーだ。意外とできていない新卒社員が多い。それと、あまり時間をかけすぎると煮崩れするので、ささっと終わらせる。和煮物はさっと煮て、冷やす段階で味をなじませるのが良いと、古事記にも書いてある。書いてないよ。

私は火を止めてから、室温に冷えるまでコンロの上でじっくりと待ってから、煮汁ごとタッパーに移して、冷蔵庫に放り込む。冷えていた方が美味しく感じる気がする。気のせいだろう。冷蔵庫直行よりはゆっくり冷ました方が、冷ます段階で煮汁と魚肉がよくなじむ。(関西では「ようしゅんでる」などと言う。どうでもいい。)これは本当の話です。数少ない真実。

ニュートンの「リンゴ」の逸話も、カエサルの「ブルトゥス、お前もか」も、マリー・アントワネットの「パンがないなら」も、毛利元就の「三本の矢」も全部嘘の話なんですけど(これらは本当に嘘です)、これだけは本当の話。地球上でこれくらいしか本当の話はないんじゃないかな。

何はともあれ、これによって、米が爆速でなくなる米ブラックホールが発生する。米ブラックホールに取り込まれると、米が消滅する。なぜなら、それは米ブラックホールだから。だが人体に悪影響はないと言うのだから、すごい話ではないか。さながら酸素を捉えて水は吐き出す「エラ」のようだ。

 

我が家(実家)では、イワシの梅生姜煮が食べられないというだけで家族会議に発展したことがある。嘘です。私はすぐ嘘をつく。

ただ事実として、母に言われて楽しみにしていたこれを、帰宅前に兄に全て食べられてしまった小学1年生の私がソファーにうずくまって泣いたという逸話がある。逸話とは歴史だ。歴史は変えることができない。こればかりは歯痒いな。だが、これも嘘だ。

 

イワシはどうやっても美味いから良い。

ガーリック・トマトソースなんて妖しくエロティックな言葉と愛のない玉ねぎの微塵切りで包み込んで煮てもうまい。当然このような破廉恥なイベントが起こることを見越して、普段からホールトマト缶とセロリを常備しておきたい。適量の塩胡椒と、トマトソース作成時のローリエを忘れないようにだけ気をつけてほしい。(市販のトマトソースを使うなら、細かいことに気を遣わなくてもいい。なぜかというと、市販のトマトソースは「ガキ大将」とほぼ同義だからだ。)仕上げには乾燥バジルを叩き込め。相変わらずサニーレタスが非常によく合うが、こちらに関しては軽くオリーブオイルを絡めておくとさらに偉くなる。

その偉さたるや、偉人(えらびと)。

煮込み時間は加圧して40分。手間がかかる。だが人生とは常にそうではなかっただろうか。肉欲にまみれたトマト・ガーリックとイワシの出会いから、本質的な愛が育まれるのに40分かかる。これは薄っぺらいラブ・ストーリーへのアンチテーゼである。

 

ちなみに、これは悪魔の所業なのであまりオススメしない(間違いなく最後の審判にて地獄行きが宣告される)が、「人間は生まれながらにして悪」だと開き直っている人は、バターを塗った耐熱皿に、薄く切って時短のためレンチンしたジャガイモを並べ、上記トマトガーリック煮込みを上からぶちまけ、またジャガイモを並べ、そんな「罪」と「罰」の繰り返しの先に、出来上がったブラッディな魂の形にチーズを乗せて己の罪過を隠しちまって、オーブンで焼いてしまえばいいさ。お前のようなやつは、そうするがいいさ。あ、最後にパン粉を振るのを強くお勧めする。

ちなみにーーああ、私はまた人の子の罪に加担しようというのかーージャガイモの上にはよく乾いたローズマリーをすりつぶしたものをかけることだ。風味が違う。

君だって、ローズマリーくらいは家で育てているだろう?ばかな。なんと愚かな…それこそが人の世の罪を逃れる唯一の術なのに…。

 

Ah 怖れるなら そこに留まればいい

Ah 壊れるから

罪と罰の中 正義は勝つとまだ言えるの?

 

Destination, time

別ればかりを繰り返す

時は引きちぎれたまま

僕らの生まれた訳が

ただ傷つけて ただ苦しんで

ただ失うなら…

 

time / Mitsuru Matsuoka EARNEST DRIVE

 

さて、落としたイワシの頭を出汁に味噌汁を作る時だが、経験上、昆布の出汁をとって昆布を上げた後で頭を入れた方がいい。理由は説明できない。だがなんとなくそうだと思っている。

合わせ味噌とキャベツ、なめ茸などがよく合うが、赤だしにしてしまっても美味しい。その際は油揚げだの豆腐だのといったジャンクフードは使わず、カイワレ大根を使うとアクセントが効いて実にうまい。実にうまいが、青辛くならないギリギリを攻めなければならない。このことが、過ぎたるは及ばざるが如しの由来である。これも嘘です。

最先端学術研究の世界では、すでにイワシの頭を捨ててしまうのは良くないと考えられている。イワシの発生させる米ブラックホールを覚えているだろうか?イワシは米ブラックホールだけでなく、実際には頭ホワイトホールも発生させていることがわかったのだ(Kusoyarou et al. 2018)。ここからは無限にイワシの頭が発生するので、これを放置していると宇宙がイワシの頭で埋め尽くされることになる。なんということだろうか。

人生万事、何事にもリスクがある。無限に増殖するイワシの頭から宇宙を救うのは、貴方かもしれない。

 

 

さて、今回も嘘ばかりではあったが、嘘を味わう時間の方が「本当の話」などを聞く時間より美しいとは思わないかね。

バカ向けに作られた「本当の話」みたいなものをかいつまんで賢くなった気になるとロクなことがない。本当に素晴らしいものはいつもクジラの化石とか、苔とか、そういうのだ。それが嫌で、そんなものに値打ちがなくて、「本当の話」をしなければならないというのなら、私は初めに書いた学問についての話をつまびらかに展開し、理論背景から応用、私の論文にまで話を進めて、無事インターネットから引きずり出されるしかなくなるではないか。

(いや、私もOxfordのElectrochemical Fundamentalsなどに書かれていることが本当に崇高で美しく素晴らしいものだと思っているわけではないが、それにしたって「Youtube大学」よりはるかにマシである。)

 

結局人々が求めているのはいつの時代も「エンターテインメント」であり、本当の話のような脚色された嘘であって、主観であって、考えであって、エモーションである。断じて「間主観的に担保された真実についての綿密な議論」ではない。

であれば、「掘り出されないクジラの化石」をより魅力的だと思う科学者の私がいても、頓着しないはずである。

 

要するに、

こんな理由から、

私は「無い話」しかしたくないのである。

 

しかし、本当に極限的な真実から目を晒すことができないのもこの世界の残酷さであって、イワシは本当にえらい、ということは、これは真実に他ならない。

かたやパン宇宙パラレルワールドが発生し、かたや米が爆速でなくなる。かと思えば罪と罰の繰り返しでポテトも消滅する。そして全てがゼロになる。

我々の暮らしは漁業従事者の皆さんと農業従事者の皆さんの頑張りに支えられています。だって生きることの本題はイワシだから。は?知らんのか?にわかか?

地球にイワシがあってよかったね。

 

私の話すことは嘘ばかりだが、イワシだけが真実である。イワシとは「真実」の化身であり、エラを持つ生物である。

 

そんなこともイワシ

そんなことをイワナいで。

 

What a mess we made when it all went wrong.

 

ちなみに私が一番好きな魚は鮎です。

 

 

そんなことも

 

(アロワナ)